夜のとばり

 雪がちらつく初冬の日、一人の少女が長い階段を上っていた。冷たい風につやのある黒髪がなびいている。上った先にあるのは町一番の高台にあるビルだった。その両側には大きなパラボラアンテナ。ビルの側面にはトゲのような装飾がいくつもついている。屋上には展望ドームがあり、その周りを土星のように金色の輪が回っていた。小さな少女にはまるで縁がなさそうな怪しげな建物に、少女は慣れたようにビルの中へと入っていった。
 暖房が効いている。ビルの中にいる社員らしき人々は皆制服を着ていたがそれも比較的薄着だった。少女は不要になったマフラーとニット帽を外した。
 彼女がこのビルに来た目的はある人物に会うためだった。普段は入り口付近にいて下っ端たちの様子を見ているはずなのだが今日はいない。ニット帽の中でふわふわと乱れた髪を整えると受付嬢に彼はどこかと聞いた。聞くと今は実験室にいると言う。
 受付の嬢も近くを歩いている男性も、全員が青緑の髪を耳のあたりで切りそろえている。着ている制服もみんな一緒だ。ここはかつて世界を変えたいという信念を持った者たちの組織だった。今は組織が一新し目的も多少変わっているようだが、彼らの思いに変わりはなさそうだ。そんな中で黒髪に濃いピンクのワンピースコートを着た少女は浮いた存在だった。少なくとも子供の来るような場所ではない。
 だが少女も周囲も何も気にしていない。実はこの少女、組織を壊滅ギリギリまで追いやったことのある人物なのである。組織の体制が変化したのもそのためだ。彼女は組織の誰もが心酔していたボスの心を打ち砕いた。彼はこの世の裏側にある現実のすべてが捻じ曲がった世界へ消え、今も行方は分からないままだ。組織全体から憎まれて当然だが、しかし、何が起こったのか少女は組織の現在のトップ、かつての幹部だった男と彼女曰く仲が良い。もちろん彼女を恨んでいる者も少なからずいるだろうが、そのような者たちはほとんどが組織を離れていた。だからここのほとんどの人々は彼女に良くしてくれる。彼女は毎日のようにここを訪れているし、ビルの各所にあるドアを開くためのカードキーも持っている。まだ子供だからという特権を使って時間のある幹部たちと先約なしで会うこともできた。彼女はこの組織では誰もが顔を知っている有名人であるため、顔パスも同然だった。
 待ってはいるもののなかなかやってこない。あとどのくらいかかるのか尋ねに行こうかと思っていると先ほどの受付嬢が少女の元までやってきた。もう少しで実験が終わる予定らしい。知らせておいた方がよろしいかと思いまして、と言うと受付嬢は戻っていった。それならば、ともう少し待ってはみたが、せっかちな幼馴染の影響か待つことに慣れていない彼女はすぐに待つのをやめた。カードキーを使って社員専用のドアのセキュリティを解除した。
 階段を上って、ワープパネルに乗っての繰り返し。迷うことなく広い講堂を突っ切り、仮眠室を横目に通り抜け、組織のボスに与えられている部屋までたどり着いた。普段彼はここでデスクワークをしていることが多い。もう戻っているかもしれないと思ったが彼はまだいなかった。
 まだかなあと部屋でも少し待ったが十分過ぎても彼はやってこない。コートを着たままの彼女には暑いくらい暖房が効いている。耐えかねた彼女は、ならばもう実験室まで行くしかない、実験室のあるフロアに続くワープパネルはこの部屋にしかないし、ちょうどいいのではないかと直接会いに行くことを決めた。でもどうしてボスの部屋にしかワープパネルがないんだろう。ボスの部屋って入りづらい場所なのに。そう思いながら彼女はワープパネルに乗った。
 ワープが終わると実験室まで続く廊下が一本道に伸びている。廊下はひんやりとしており、温まった身体を冷やしていった。暖房によってふやけた脳が再び引き締まっていくようだった。
蛍光灯の光が床を照らしていた。かつて少女が組織と敵対していたころ、湖のポケモン達を助けるためにこの廊下を通ったことがある。
 しかし以前ここに来たときには電気はついていなかった。当時唯一廊下を進む手掛かりとなったのは大きな実験器具から漏れる光だった。長い廊下の端まで並んでいる大きな実験器具には緑色の液体が入っていて、中には何かが浮いていた。白く、薄いピンクがかかった、何か。実験の経過を分かりやすくするためなのか、それとも実験の過程で光を当てているのか、それは下からほのかな光で照らされていた。よく見るとそれには形に沿って繊維が通っていた。削がれた跡のようなものもあって、もっと大きなかたまりから切り取った欠片なのだろうということが想像できた。欠片が液体の中で動くたびにその緑もどろりと体積を移動させるのが分かった。暗い廊下に実験器具からは時々電子音が鳴り、雰囲気だけは一丁前だったことを彼女は覚えている。
 今も実験器具は置いてあるものの、中に入っていた液体と例の何かはなくなっていた。器具の電源はついていないようだ。
 一体何の実験をしていたのか。前にこの廊下には青い顔をした研究員が二人いたことを彼女は思い出す。二人とも、今回こそは実験の過激さについていけない、と侵入者である彼女のことなどうわの空で呟いていた。片方は今にも吐きそうなほどだった。旧ボスのカリスマ性にあれだけ魅了されていたにも関わらずついていけないとは、盲目だった彼らにも有り余るほどの実験でもしたのだろうか。
 赤い鎖。
 廊下を歩きながら少女は考える。捕らわれた湖の三匹から結晶を取り出して作られたもの。聡い少女はそれが生体実験を意味することを知っていた。結晶がどのようにして取り出されたかは知らないが、想像を絶するものだったのだろう。捕らわれていた彼らの離してくれと叫んでいる苦しそうな目が忘れられない。無事にとはいかなかったがこの地方を見守る彼らへの耐え難い苦痛が終わってよかったと思う。
 現在湖の三匹は彼女のことを主と認めていて、手持ちのポケモンとして協力してもらうこともあった。今日はアグノムを連れてきていた。
 ユクシー、アグノム、エムリットは実験室に捕らわれていた。実験台にされたことは間違いない。実験は仮説を立てて何度も失敗してそれに考察を重ね成功するものだ。彼らは成功するまで湖の三匹を実験に使ったのだろうか。そんなはずはない。貴重な伝説のポケモンに万が一のことがあったら大変だ。
 もしかしてこの実験室は秘密の部屋だったのかもしれないと思った。ボスの部屋にワープパネルがあればこの部屋は見つけにくい。いくら団員がボスに心酔していたとはいえポケモンを使った生体実験をしていると知ったら目が覚める者もいるだろう。
 少女の目にふと使われていない実験器具が映った。三匹が捕らわれていたのはもっと奥の実験室だ。ではこれらの器具では何をしていたのか。
 白くて、薄いピンクがかかっていて、繊維の通った、何かを削いだ欠片。
 実験の予行演習。
 生体実験。
 まさか。世界が一瞬真っ黒になった気がした。気持ちが悪い。少女は近くの壁にもたれ、そのまま床に腰を下ろした。行儀が悪いとは思ったが、近くに椅子も机もない。体育座りになってそのまま塞ぎ込んだ。
 三分ほどたっただろうか。コツコツと誰かが廊下を歩いてくる音がした。実験室の方向からだった。実験が終了したのだろうか。足音は少女の前まで来ると止まった。
「ヒカリ? どうしたんだ、こんなところで」
「サターン……」
 ヒカリはかすれた声を出しながら顔を上げた。
 足音の主は彼女の目的の人物だった。青色の髪に特徴的な髪形なので遠くからでも見つけやすい。現在は組織の新たなトップとして組織に残った者の面倒を見ている。
「大丈夫か? 顔が青い。立てるか?」
 サターンが手を差し伸べる。
「ありがとう」
 ヒカリは手を取り立ち上がったが、立ちくらみがしたためによろりとサターンの方へ倒れ掛かった。サターンがヒカリを受け止める。
「とりあえず仮眠室へ行こう。実験がちょうど終わったんだ。あとでその話もきいてほしい」
 サターンはヒカリを仮眠室につれてくると手際よくベッドに寝かせた。少し待っていてくれとサターンはどこかへ行き、帰ってきたときにはマグカップを二つ持っていた。
「ココアを淹れてきた。飲めるか? 賞味期限は大丈夫だと思うが……。まあ飲んでも死にはしないだろう」
「サターンさんって意外と適当なんだね。もう良くなったよ、大丈夫」
 ヒカリはあははと笑い、起き上がるとカップを受け取った。火傷に気をつけながら淹れたてのココアを飲む。
「これいつも飲んでるココアと違う味がする。ああ、変な味とかじゃなくて。おいしいね」
「エネココアだ。少し前に団員が旅行へ行った時のお土産だな。ホウエンだったかアローラだったか」
「ホウエンとアローラってすごく離れてるじゃん! やっぱり適当なんだね」
「そんなことはない。どちらも南の国だからこんがらがるだけだ」
 ヒカリが元気になったことを感じサターンは微笑んだ。
「ホウエンってそんなに南の国だったっけ? それよりねえ見て、ピッピ人形。布団の中に隠れてたの」
 ヒカリがかわいいでしょう、と布団の中からのピッピ人形を出した。
「誰かが持ってきたまま持ち帰らなくてな。いつの間にか仮眠室のマスコットになってしまった」
「ええ、なあんだ、知ってたのかあ」
 二人が談笑しているとふいにヒカリの鞄に入っているモンスターボールからポケモンが飛び出した。アグノムだった。アグノムは飛び出してくるとサターンを見るなり攻撃的な声を出して威嚇をした。ヒカリの前に出て守るように手を広げている。
「アグノム……あの時の」
「アグノム! 戻って」
 ヒカリは低く唸るアグノムを強制的にボールの中に戻すと申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、アグノムたちはここに居づらいだろうと思っていつもはポケモンセンターに預けてるんだけど、今日はうっかり連れてきちゃった。サターンさんの声に反応したのかも」
「あれだけのことをしたからな。憎まれて当然だ」
 サターンはすまないことをしたと自嘲的な笑みを浮かべた。
「あのアグノムを捕まえたのか?」
「うん、湖のポケモンは三匹とも仲間にしたよ。それで、何の実験をしていたの?」
「ああ、あるエネルギーについて調べていたら、宇宙開発に役に立ちそうな特徴が見つかった。今日実験室にいたのは、それで実験が新たな段階に進んだからだ」
 口角を上げてサターンは嬉しそうに答えた。
「へえ、おめでとう!私には難しいことはよく分からないけど、すごいことなんだってことは分かるわ。世間にギンガ団はすごいんだぞって知らしめてやらなきゃ!」
「はは、そう発表できるほどのものだといいが。そうだ、どうして実験室まで来たんだ?いつもだったら私の部屋で待っているのに」
「ああそれ、最初はロビーで待ってたんだけどもう少しで実験終わるって聞いて部屋まで行ったけどいないから来ちゃった! だってこのビル暑くない? 実験室なら涼しいかなって思ったの」
「あのせっかちな幼馴染の影響か?暑いのはそんなコートを着ているからだろう」
「それもそうだね」
 サターンが思い出したように聞いた。
「気分はもう大丈夫そうだが、なにかあったのか?」
明るかったヒカリの表情が少し暗くなった。ピッピの耳をいじりながらためらいがちに言う。
「ああ、あのね、少し考えちゃったんだ。アカギさんがボスだった時の話。何か実験してたなあって思いだして。緑色の液体のやつ。なにをしていたの?」
 ヒカリにはサターンの顔が凍りついたように見えた。ヒカリの表情を見て察したのだろう。もっと無邪気に尋ねれば反応は違ったのかもしれない。一瞬の間の後サターンは口を開いた。
「大方予想がついているのだろうが……。想像の通りだ」
サターンは顔に何も浮かべずに言った。
「ポケモンを実験に使っていたのね? ポケモンを奪っていたのも……」
「ああそうだ。だが人から奪ったポケモンは私が知る限り使っていない。戦力になるからな。そこらへんで捕まえた……弱いポケモンを使っていた。抵抗しないようドーミラーの催眠術を使って眠らせた。残念ながら実験の途中で命を落としたポケモンもいる」
 サターンは驚くほど冷静に言う。
 決して明るみに出てはならない話を、しかもこんなに詳しく話してもいいのかという迷いはあった。子供には刺激の強すぎる内容だ。だがいつかは言わなければならないことだったからか、それとも頭の良いヒカリはそのうち自分で気づくだろうと思っていたからか、サターンの口からは自然と言葉が出てきた。
「そんなことって……。湖の三匹が無事で良かったって、私、今まで目の前のことしか見えてなかった」
 ヒカリは自身の憶測が考えすぎであればいいと思っていたのだろう、事実を知って声が震えている。
 ヒカリはポケモンを愛し、湖の三匹を救った。しかし三匹の命は今まで実験台にされてきた何匹ものポケモンの命の上で成り立っている。それを知った彼女がひどく衝撃を受けるのも無理はないことだった。
サターンは何と声をかけていいのか分からなかった。幹部として組織をまとめていた本人が、後悔していると偉そうなことを言ってもいいのだろうかと思った。そしておそらく嫌われ、軽蔑されただろうと思った。
 サターンは考える。
 アカギ様に自ら進んで騙されたとはいえ研究に加担していたことも事実。いや、私が研究チームを引っ張っていた。組織の、ボスの本当の目的を知っていたのは私だけだった。彼を止めたら良かったのだろうか。いや、できなかっただろう。私だって彼の言葉一つ一つに酔っていた。私が成果を出して見せます、と本心で言っていた。きれいな実験なんてしてこなかった。ギンガ爆弾のスイッチを押したのも、アグノムをはじめとした湖の三匹に手をかけ結晶を取り出したのも私だ。赤い鎖の作り方を発見したのも私。元々は研究員として組織に入ったのだ。俗にマッドサイエンスと呼ばれるような実験をしてきた。グレーゾーンではないところまで行きついてしまっている。完全にブラック。どれだけ酷い実験をしてきたかはアグノムの態度が証明している。しかしボスも私以外の幹部もいなくなり残っているのは私だけになってしまった。せめて部下たちの面倒は見なければと思った。空中分解寸前だったがなんとか組織は存続させようと。元々暗い噂がされているギンガ団だ、生体実験もこれがばれたら組織の立て直しはもう無理だろうと思い、槍の柱の一件で警察が捜査に来る前に、部下たちと水面下で繋がっていた警察内の協力者達に処理させた。
 この少女は強い。勝負の腕も精神的にも。だが哀れだ。強くあってしまったがために、この組織の内情に踏み込まなければならなくなった。普通に旅をしていたらする必要のなかったことであり、本来ならば組織の弾劾は大人のすることだ。
 そして少女はポケモンリーグに挑み、この地方のチャンピオンとなった。ポケモンを扱う才能があるのだろう。
 いつも自分を訪ねてくれる彼女にずっと後ろめたい気持ちがあった。いつかは言わなければならないと分かっていたが、彼女の笑顔を見るとどうしても言い出せなかった。しかし彼女には未来がある。こんな後ろ暗い組織と、そして自分と関わっていたらきっとどこかで損をする。取り返しのつかないことに発展するかもしれない。今が良いタイミングだろう。彼女の未来を考えた上での結論だ。
「大切な話がある」
 少女はうつむいていた顔を上げた。賢い彼女のことだからどこかで察しているかもしれない。外にはすでに夜のとばりが下りていた。粉雪が舞っている。
 サターンはヒカリの目を見ていった。
「これからは少し、距離を置かないか」

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