リッシ湖の作戦では随分と高揚してしまった。冷蔵庫からよく冷えたエナジードリンクを取り出した。まだ作戦は続くのだと気を静めたが、腹の底では未だ火種が燻っている。
「少しは落ち着いたかしら?」
「……何のことだ」
いつの間にか入ってきていたマーズがこちらを見ていた。
「帰って来た時のあなたの顔、酷いったらありゃしなかったわ」
「お前に言われたくはないな」
マーズは「あたしは野外作戦に慣れてるからいいの」と言うと、私に続いて冷蔵庫からミックスオレを一缶取り出した。鉄製の椅子を引いて向かい合わせに座る。私が食堂の入り口側だった。
「そちらも湖では邪魔が入ったようだな」
「酷い目に合ったわ。仲良く恋人気分で乗り込んでこられて、こちらとしては大迷惑!」
「研究所が近いからな。あの子供らの出身がシンジ湖のすぐそばらしい」
マーズがミックスオレを飲んだ。彼女はいつものんびり情報端末を弄りながらジョウト産オレンのミックスオレを終わらせるのだが、今日は珍しくペースが速い。興奮しているのだろうか。ストローを使っていないのも普段とは違う。
「いよいよらしいぞ!」
「俺のポケモン、最後まで取り上げられなくて良かったあ! なあ、俺のズバット!」
「テンガン山ってあのテンガン山だろ? この足で登るの嫌だな」
したっぱ達が食堂の近くを通り過ぎて行く音が聞こえる。声が大きい。何を話しているのか丸分かりだ。彼らも目的達成が近づき興奮しているのだろう。マーズが彼らをうるさいと思っているのを隠そうともしないせいで、二人しかいない空間が表面張力ぎりぎりの状態に感じられた。
「……行ったようね」
マーズが「いい気になって、くだらない」と吐き捨てた。それには同感だった。まだ目的が達成されたわけではないのに、有頂天になっている団員のなんと多いことか。
「こんなにお楽しみ気分のままテンガン山を登るつもりだなんてどうかしてるわ。何人脱落するかしらね!」
「お前は何故そういうことを言う」
マーズの形振り構わぬ行動力は常々評価しているが、その口の悪さには普段から呆れていた。悪態を吐くのは際で留めておけばいいのに、平気で味方のことを詰るのだ。どこで敵を作ってくるか分かったものではないのに、繰り返しやめないかと正そうとしてもその癖は治らない。
「最終作戦の前なんだ、今回ばかりはあまり毒突くな。誰がどこで聞いているか分からないと前から言っている」
作戦の度、彼女のような人間のファンである団員が少なくないことに驚く。しかし彼女の高圧的な態度を苦手とする団員も多く、まとめ役である幹部としては非常に危うい。
「見かけだけの仲間がそんなに大事かしら?」
マーズが可笑しそうに笑った。
「付いて来られない人間はそこまで。来なくたって何とかなる。最悪、アカギ様と幹部三人だけしかいなくたって作戦は決行していたでしょう。……あら」
マーズが黙ったので何かと思えば、食堂に私達を見つけたしたっぱが一人入って来るところだった。瞳孔を開き目をぎらつかせている。まずい、聞かれていたか。これだから話をする場所は選べと注意したのに。しかし彼はギンガ団の未来を信じて疑わぬ表情で、「サターン様、こちらに居られたのですね。マーズ様もご一緒でしたか」と声をかけてきた。
「そろそろ演説が始まるので、お知らせに」
「そうか。もう少ししたら向かう」
したっぱは私の手元のエナジードリンクを見て休憩中だと理解したようだった。マーズが手に持ったミックスオレを一口飲む。何も表情を変えず、部下を一目見ようともしなかった。そんな態度に緊張感を持ったのだろう、彼はちらりとマーズを窺うと「失礼しました」と言って去っていった。
「少しは関心を向ける振りでもしたらどうだ」
「あら心外ね! あなたよりは下っ端たちのことを知っていると思うけど?」
マーズはいつも芝居がかった言い方をする。喧嘩を売ってくるならばまだ良い。こちらの神経を逆撫でしておきながら、マーズ自身が争いの元ではないように振る舞うのだから性質が悪いのだ。
「今は言い争っている場合ではないだろう」
私が窘めるとマーズが「ふうん?」とだけ返し、そのまま沈黙した。同僚と気まずいまま最後とも言える休憩を終えるのは嫌だったので、なんとか話題をひねり出す。
「……ボスの演説が始まるな」
気温が下がっていくように感じられる。リッシ湖での敗北で味わった芯の冷えとは違い、全身の感覚が研ぎ澄まされていくように感じられた。瞳に入ってくる光がより明るいものに変わったような気さえする。「そうね」とマーズが相槌を打った。
「あたし、今回はパス。テンガン山に登る準備を整えなくちゃいけないの。本当は演説聞きたかったけれど……。ボスの命令だから仕方ないわよね」
マーズはミックスオレをぐい、と飲み干すと席から立ち上がった。私も缶の底を見たが、この量は飲み終えられそうにない。座ったまま彼女を見送ることにした。
マーズはテーブルから一歩二歩離れ、唐突に振り返る。いつもするような、わざとらしい無邪気な笑みを浮かべて、今思い出した、とでも言うように私にこう告げた。
「そうだわ、あなたが一緒に研究している部下たち、今回こそはもう使い物にならないかもしれないわね」
私にとって、青天の霹靂とも言えるほど予想外の言葉だった。相変わらずの芝居がかった言い方に、これもタイミングを見計らっていたのではないかと勘繰ってしまう。しかし、どうして今なのだ。
「使い物にならない……? 彼らはよく働いている」
ワープパネルの作成案から、かの伝説のポケモンの考察、三つの湖の同時攻略。テンガン山へのボスの登頂ルートの割り出し、サポート……どれも鮮明に思い出せる。
「……まあ、あかいくさりを創り出す時の実験では青い顔をしている者はいたが、ボスがいる限り大丈夫だろう」
ギンガ団のしたっぱ達はアカギ様のカリスマ性にひどく酔っている。研究員も、実験が世間の批判を浴び居場所が無かった者ばかりだ。彼らは皆アカギ様が連れてきた。アカギ様がいれば大丈夫なのだ。
「あなた、いつまでそんなことを言っているつもりなの? 彼らはアカギ様に賛同してギンガ団に入ったけれど、全ての命令をボスが出すわけじゃない」
「何が言いたい」
つい眉を顰める。私は内心、この女に苛ついていた。ボスから何も聞かされなかったこの女が、ボスの考えの何を理解しているというのか。
「前に言っていたわよね、私たちは神話の世界を現実に起こそうとしているって。彼ら、可哀想にそれを知らないわ」
マーズが吐息交じりに言った。本当に可哀想だと思っているのだろう、口元は笑っているが伏し目がちだった。部下に仲間意識を持たない彼女が、彼らを可哀想だと形容するのが意外だった。彼女にとって部下はただ駒であり、自分だけがボスに見てもらえれば満足なのだろうと捉えていたが、どうやら違うらしい。
「ボスの一番近くにいるあなたが言ったんだもの。きっと本当よね」
ボスに心酔しているマーズがこう言うのは、なんだか矛盾しているように感じた。私がボスの一番近くにいたと、彼女が最も認めたくないであろうことをあっさりと口にしたことに拍子抜けした。お前が認めているのはボスだけではなかったのか、と言いたくなったがやめた。私はマーズを見つめた。彼女の茜色の瞳が何を考えているのか、私には読み取ることができない。
マーズは私が黙っているのを見て、一つ息を吐いた。廊下に誰もいないか耳を澄ませ、密やかに語る。
「いい? 私の見立てだとね」
マーズが「これは言おうか迷ったけれど」と手を顎に当て、少しの間躊躇のポーズを見せた。そして、マーズが今まで見せてこなかった毒のない微笑みで言った。
「彼らは、近いうちに耐え切れなくなって逃げだすわ」
「ここまで来て言うのか?まさか、そんなこと」
作戦も大詰めまで来ているのだ。研究員たちはアカギ様の目的は知らずとも、ギンガ団が何をしてきたのか知っている。今逃げ出したら身の安全も分からないのに、逃げるだと?
「まさかが無いと言い切れる? 口止めはあなたがするのよ」
私はお前より上手くやっていたはずだ。部下の行動は厳しくチェックしていた。ここ数日体調が悪いと言う部下も把握しているし、彼らがどんなにアカギ様に酔いしれているかも知っている。
マーズは「さあ、あたしは知らないけど」と言うと「だってあなたの管轄だもの」と口の端で小さく笑った。
「じゃ、あたし行くわ。さよなら、ちゃんとモニターしていてよね。また会いましょ」
マーズが缶をゴミ箱に投げ入れた。そして「作戦が成功したらの話だけれど」と付け加えながら、後ろ手に別れを言い去っていった。最後まで彼女のペースで話が進み、私の言い分は聞いてもらえなかったことが悔しく、何も言えなかった。
マーズが言っていた研究員達のことが心配で、演説を直接見に行くことはやめた。だが、演説室のマイクを通して私のイヤーモニターにボスの言ったことが流れるようになっているから、直接目にできないだけで演説は聞ける。
『テンガン山に行く者、ここアジトに残る者。それぞれ為すべき事は違えどもその心は一つである』
イヤーモニターを通していても分かる。自分の意志も感情も、演説室内の熱狂的な感情の渦に巻き込まれ溶かされそうだ。それでいて、演説室の隅にただ傍観しているだけの自分が乖離しているようだった。電波を隔てているからだろうか。ボスが「心」という言葉を使ったことがなんとなく、甘酸っぱいようなかすかな感情の綻びに感じられた。
研究室の外の廊下で塞ぎ込んでいる研究員たちにどうかしたかと問えば、彼らは怯えた表情でこちらを見た。そうか、マーズはこの事を。実験の最中、彼らはこのような表情を見せなかった。私が見ていない振りをしていた、という方が正しいだろうか。マーズは私が思っていたよりも、そして私よりも周りを見ている。研究員たちに「早く休め、目的達成は目の前だ」と声をかけ、仮眠室へ行くよう促した。このように、アカギ様の語る熱い言葉、気高い理想と、裏腹に行われる略奪行為や生体実験、生々しい現実の差に耐え切れなくなり組織を抜けようと目論んだ者たちを幾度となく見てきている。彼らは、近いうちに逃げ出すだろう。
あかいくさりが神話の二体を捕らえた。やりのはしらが歪んでいるように見えるのは凄まじい風圧と音圧のせいなのか。それとも本当に世界が創り変えられているからなのか、脆弱なモニター越しには判断できなかった。
マーズはああ言ったが、したっぱたちも新しい世界を創るのだということは何度も聞かされてきている。それをただ夢見心地でいるのか、実際に動くかの違いではないのか。ボスは自らの力を分かっていた。神話を調べ、湖の三体からあかいくさりを二本作り出し、今から世界を生み出そうとしている。
何度も入った邪魔も、今回こそは私たちを止められない。解放された湖の三体がテンガン山の頂上を飛び回っているようだが、ディアルガとパルキア二体同時に揃っていては世界と知情意のバランスを保つことは難しいだろう。
気付かぬうちに口角が上がっていたらしい。隣にいた研究員が「いよいよですね」と確信に満ちた表情で私を見た。これから世界が宇宙の誕生まで巻き戻り、そして再び膨張し始めるのだ。
すると突然、やりのはしらのエネルギーを測るメーターが異常を感知した。数値が大きく振れ、あちこちでアラームが鳴る。
「サターン様、アカギ様の奥から謎の巨大な反応が出ています!」
「どうした⁉」
「ディアルガでもパルキアでもありません! 何だこれは……、エネルギーの値が虚数を指しています!」
計器をいじるが科学の力ではコントロールが不可能なほどエネルギーは強大だった。無線で呼び掛けるがやりのはしらにいる者達もパニックに陥り状況が把握できない。向こうの通信機器が壊れたのか、モニターに黒い線が幾つも走り、そして半分見えなくなった。わけもわからず原因を探っているうちに、影しかない『何か』が現れ、そしてアカギ様は黒い闇の中に飲み込まれてしまった。マーズもジュピターも何が起こったのか分からない、と呆然と立ち尽くしているのが絶え絶え見える。
目の前が揺れ、無意識に呼吸が速くなっていたことに気付いた。アカギ様は無事だろうか。
待機していたしたっぱ達が押し寄せ、モニタールームが一層騒がしくなる。当たり前だ。部屋を飛び出していった者、ただ立ち尽くす者。この騒ぎがアジト全体に広まるのも時間の問題だ。一番問題なのはこの騒ぎに乗じて逃げ出した者達が、意図的でなくとも警察に情報を渡したとき。アジトに残った幹部は私とプルートの二人だが、あのじいさんは駄目だ。私がやるしかない、と決めた瞬間、半分壊れかけたモニターからマーズの差し迫るような低い声が途切れ途切れに聞こえた。
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